2018年5月17日木曜日

取捨選択=センス?

左:先生の1時間デッサン
右:自分の3時間デッサン
構図の違いも、意図の違いもあるけど、実力差がすごいというか。らしく見せるというのと、写実的というのと、演出と。これらをミックスさせるにはスキルだけじゃなくてセンスが必要だと思うのだ。

・・・ある先生にこの作品を見せたところ、開口一番「ラバーの奥から書き込んでいったでしょ」と。なぜそんなことまで分かるのかと聞いたら、「奥側の方が手の入り方が細かいから」と。間違いではないけど、手前というか、「見せ所を細かく書き込んだ方が目が行くから、時間の使い方がもったいないことになっているよ」とも。

もう納得することだらけ。自分的にはこの差がスキルだけではない、センスだと思ったのだが、あながち間違いではないということか。服に置き換えたら分かる。頭のてっぺんからつま先まで、ゴテゴテに飾り立てたら、それはおそらくダサくなる。それと同じなのだ。コンバース(モチーフは無印商品的なものだったけど)のどこに目が行くかといったら、その素材感と独特のカタチ、それに古典的なラバーソールとその横のラバーテープだろう。ここが実物そっくりであれば、そこにフォーカスが行くわけで、全体としての絵の評価がグンとよくなるはずだ。

これは性格的な問題もあるのだと思う。私は枝葉末節にすごく拘ってしまうというか、細かいところにすぐ気づいてしまうタチなのだ。
これを活かせばいいのだろう。自分が気になるところはざっくり描いて、放っておく。細かく描きたくなったら、今時点では一番手前かエッジになる部分のみ描いて、遠くから見てみる。それでよければそこで完成、としてみようと思う。

2018年5月16日水曜日

いつもオクトパスアーミーだった

1987年4月の2週目だっだと記憶しているが、クラス全員参加のコンパがあった。大学はクラス単位での授業は語学と体育だけであり、クラスという単位があまり意識されないということは入学後初めて知った。
クラスの担任は飄々とした方で、アカデミーというよりは社会での実践を重んじるタイプだった。コンパも、「クラスで動くことはどんどんなくなるから、今のうちにしか取れないコミュニケーションを取っておいたほうがいいよ」という非常に端的なアドバイスからなるものだった。

コンパは渋谷のセンター街の中にある小洒落たイタリアンのお店でやったと記憶している。お店に行くのが遅かったせいで、窓際のハイカウウンターのような席でとても座りにくかったこともよく覚えている。
お酒が体質に合わないこと、カラオケも嫌い、そもそもあまりきゃあきゃあ騒ぐのが好きでもないので、お開きになると同時にお店を出た。
高校時代は新宿や原宿ばかり行っていたし、浪人時代は買い物自体あまりしなかったので、渋谷の店から湧き出してくるようなファッションの情報量に目を見張った。当時はフラッシュダンスやトップガンといった、今でもよく話題になる映画がヒットしていて、これらの登場人物の服や靴、それにバイクが注目の的だった。リーボック、MA-1、NInja・・・これらは今は商品を表す言葉にすぎないけど、当時はライフスタイルとかカルチャーを表す記号だったのだ。これら記号がどの店からも溢れて、センター街を覆い尽くしていた。

センター街を渋谷駅に向けてゆっくりと歩いていると、軒下までTシャツや小物を溢れんばかりに出している店があった。高い天井からはMA-1やらロンTがたくさんぶら下がっていて、倉庫のような雰囲気。現在の所ジョージ氏のご自宅のような雰囲気とでも言えばいいだろうか。服、靴、雑貨が溢れんばかりなのだが、そのテイストに一貫性があるところが妙に心地よかった。これが大学時代4年を通じて毎週のように通うことになるオクトパスアーミーとの出会いだった。
ド派手なプリントものや、グリーンベレーのようなタコのキャラクターもの。これがなんとも格好良くて、ひとめで気に入った。中でも、派手なタコのワッペンが前後について茶色のメタリックっぽいMA-1がとても気に入った。お値段は確か32800円だったか、39800円だったかだと思う。大学入学したてでアルバイトもまだやっていない19才にはなかなかのインパクト。店員さんに聞いてみると1サイズで数着しか作っていないから、38サイズ、40サイズは店頭に出ている限りとのこと。うーん・・・・

翌日、なけなしのお金を握りしめて渋谷に直行した。お店のオープンは確か10時30分だったと思う。開店と同時に購入。お店の方は私を覚えていてくださったが、少なからず驚いた顔をしていたことも覚えている。顎周りに薄くヒゲを生やした、いかにもアパレルの方という方で、多分当時25才くらいだったのではなかろうか。今はどうしているだろう。
お店の派手さに似合わぬ地味な茶色い手提げ袋に入れてもらい、そのまま帰宅した。遊ばずに帰るなんて、よほど嬉しかったのだと思う。

これがきっかけとなって、主にアウターはオクトパスアーミーで買うようになった。前のエントリーでショップのwebから拝借した写真のTシャツはおそらく20年以上ぶりに復活させたオリジナルキャラ、ケンケン。これは私が通い始めた頃はなくて、多分1988年頃から使ったキャラクターなのではないだろうか。
オクトパスアーミーで気に入ったのは独自キャラやお店の派手さだけではない。品質がとても良かったのだ。メイドインUSAかジャパンのものが大半で、当時そろそろチャイナが出始め、TAIWAN多数派といった、当時のお値打ちカジュアル群の中では異彩を放っていた。
どこに行くのもオクトパスアーミーだった。学校、バイト、ドライブ、ツーリング。学校では階段教室で背中を見ればどこに私がいるかがすぐわかる、と言われたことがある。良い目印になっていたのだろう。「背中にタコ背負った人」と言われていると同級生の女の子にも言われたことがあるので、よほどのインパクトだったのだと思う。良くも悪くも。

今はこれだけ入れ込んでいるブランドやショップはない。大人になって社会とのお付き合いが半分を占めるになったこともあるのだろうけど、お店に行かなくては!という強迫観念すら感じさせてくれるような好きな店がないのだ。「オクトーアスアーミー シブヤで会いたい」という映画が1990年に公開されたが、このタイトルをつけた監督もおそらくは当時のオクトパスアーミーにインパクトを与えられ、そして愛していたのだと思う。
自分が好きなものがある生活というのはとても幸せだったと思うのだ。

2018年5月14日月曜日

ファッション30年を俯瞰

1987年頃を境にアメカジブームが起きたと記憶している。

この頃のファッションは流行り廃りのサイクルが恐ろしく早かった。
私が中学校2〜3年の1981年前後にはサーファーブーム。みんなサーフブランドのトレーナーやTシャツを着ていた。タウンアンドカントリーとか、アルパとか。鮮やかな色使いのマークは新鮮で格好良かった。ちょい大人だと、バックプリントのシャツか。これだとファションじゃなくて本当のサーファーっぽく見えた。
その少し前にはテニスブランドが流行っていたと思う。タッキーニとか、フレッドペリーとか。テニス部にいたこともあって、これらは結構着た。ポロシャツという意識ではなく、テニスブランドという意識で着ていた。

話が激しく前後するのだが、サーファーブームはあっと言う間にすぎて、1982年にはアイビーが流行ったと思う。ローファーにコインを挟んだり、アイビーリーグの紋章のついたスタジャンとか、シャツもボタンダウンとか。
私もこれは随分いろいろ買った(買ってもらった)。今考えると、グレーのフラノのパンツを中学生が何本も持っているというのは随分と贅沢なことだったと思う。サーファーファッションとの接点は完全にゼロ。私は普段制服のある中学生だったから良かったけど、その頃の大人たちは服にかかるお金は大変なものだったのではないかと思う。
このアイビーも2年くらいしか持たず、1984年にはDCブランドが先鋭的な(今見るとすごくダサい)ファッションで攻めてきた。テーパードのジーンズに幾何学的なざっくり編んだセーターとか、肩パッドの入ったジャケットとか。それになぜか小脇にクラッチバッグ。これも長続きせずに、1985年にはモノトーンで全身黒づくめみたいな、わかりにくいファッションになっていった。この頃、モノトーンが高校生にはちと早いという感じがしたのと、それなりに持っていたアイビーのワードローブを着崩すという感じで、Pコートやらダッフルコートと色鮮やかなストライプのマフラーをタイトなパンツやジーンズと合わせるといった、アメカジの始まりみたいな着方をよくしていたと思う。

そしてようやく冒頭に書いた1987年に話が戻ります。人に読んでもらおうと思わないで書くと、こんなにも文章は雑に、冗長になるのかと驚きつつ、筆を進めます。
1987年は、私にとっては屈辱(当時はそう考えていた)の浪人時代の終わり。あるいは大学生活の始まり。とりたてて強い目的意識もなく、本当に普通に大学生活が始まったとき、まずは服をあれこれ買ったことをよく覚えている。ミツミネとかタカQ、それにイトーヨーカードー。イトーヨーカドーは当時はメンズファッションに結構力を入れていて、ミツミネなどに負けないほどの流行りの、あるいは尖った服を作っていた。
どれくらい尖っていたかというと、当時、ジョガーパンツを売っていたのだ。ジョガーパンツは2016年くらいに一般化したと記憶している。30年も前に実はジョガーパンツがあったのだ。今でもそのデザインをよく覚えている。カーキでテーパード、それにサイドにはサメのエラのような飾りのついたポケット(サープラスと差別化したかったと推定)。今あったら喜んで履きたいくらいのデザインだった。
シューズも充実していた。リーボックのハイカットを買ったのもイトーヨカドーだったと思う。これにトップスはリーバイスのジージャンをよく着ていた。フォルムがややゆったりだが、今着ていたとしてもおかしくないファッションセンスなのではないかと思う。
これが4月の桜が咲く頃、大学の入学式のすぐあとくらいに着ていた服。

そして、クラスの初めてのコンパが開催された渋谷で、あるお店と運命的な出会いをすることになる。

いくらなんでも長くなった。続きはまた明日。


2018年5月13日日曜日

たまに思い出すこと

学生時代、法律関係のサークルに所属していた。
サークルには学校の先生の他、サークルOBの弁護士の先生もいらして、そのうちのお一人の方の事務所でアルバイトをすることが数回あった。
アルバイトといっても、先生の事務所の慰安旅行の留守番だから気軽なもの。弁護士業務のバックエンドの仕事をするわけでもなんでもない。
1日寝泊まりするだけで確か1万円いただいていたと思う。先生は2泊とか3泊されるので、バイトは日替わり、2人体制でやっていた。

温和な先生、先生に輪をかけて温和な奥様。そして事務アルバイトの丸顔でメガネをかけた、いつもニコニコした若い女性。夏本番の爽やかな朝方に先生の事務所兼住居のマンションにお邪魔し、「いってらっしゃい」とお見送り。
アルバイトとしての仕事は、事実上、この数分間だけ。先生のおっしゃる「自由に過ごしてよい、帰ってくるまでに現状回復されていればいいから」を鵜呑みというか、その深慮遠謀なところを全く慮ることなく自由に過ごしていた。

まず、暇そうなサークルのメンバーに電話をする。1980年代のことだ、今と違ってスマホはおろか携帯電話すらない。事務所の電話を勝手に使うのだ。
サークルの夏合宿の宿題作成や遠征のカリキュラムの打ち合わせという名目で続々とメンバーが集まる。エアコンが効いた広い応接室で重厚なレザーのソファにもたれかかったら、もうそんな打ち合わせなんてどうでもよくなる。
だらだら喋りながら、お弁当屋さんで買ってきたお弁当を食べる。誰かがビールを開けた瞬間にアルバイトの建前すら消え去り、完全な居酒屋になる。
私はお酒を全く飲めないので、冷静なのだが、まあみんな悪知恵が働くというか。先生の書斎から高そうなウイスキーを1杯失敬するやつ。それを真似てまた1杯失敬するやつ。夜半には高そうなウイスキーは数本空になっていて、そこにサントリーのホワイトを入れてごまかそうとするわけだから、法学部の学生なぞ辞退した方がいいと思うような振る舞いばかり。昼間から明け方までソファに寝そべったり床に寝転びながらポテチを食い、コンビニの弁当や冷凍食品を広げてダラダラ喋る。それが48時間続くのだ。今思えばとても贅沢な時間の過ごし方だけど。

3日目の10時頃、先生から「今から帰ります」と電話がある。これを聞いてからの「現状回復」がある意味本当のアルバイトだった。タバコ臭くなった部屋の換気、ポテチのカスなどで汚れた部屋の掃除、飲んでしまったウイスキーの証拠隠滅。正規アルバイト以外のメンバーの追い出し。
今考えると先生の帰るコールは「そろそろ原状回復にとりかかってくださいね」というメッセージだったのだろうと思う。いや、そもそもアルバイトもお小遣いをくれる名目だったのだろうとも思う。
あれから30年。先生も80歳をとうに超えているはずだ。お元気だろうか。
地下鉄の駅を降りて地上に出ると、先生の事務所のあったマンションのことをたまに思い出す。サントリーホワイトに入れ替えをするS君の無精髭の生えた顔や、寝癖を直すMさんの顔も脳裏にありありと浮かんでくる。

2018年1月26日金曜日

光と影

白いものを白い空間にどう描くか。鉛筆で白いものを描くには?
グレーの階層構造の中で白い部分と黒い部分を作れば良い。

まあ、何でも言うほど簡単でも難しくはないわけで、何とかこのレベルの絵は描けるようになった。悪くはないのではないか。
これは線でなく面で描いたのだが、うまい人は「線で面を作って」いたりするから凄いものだと思う。線をうまく使うとちゃんと白いものに見えるんだよね。これは今後の課題というか、チャレンジ目標ですね。

じゃあ、白くないものと白いものを1枚の紙の上で描き分けるには?
これは白いものより簡単なようで簡単ではない。どこまで色を乗せていくのか、正解はないからだ。固有色にこだわるのは素人の典型的な傾向らしい。素人は見事にハマりましたよ。
あざとくハイライトの部分を練り消しで取っていくこともできなくはないのだろうけど、今度は質感が失われていく。結局はなんだが黒いコロンとした物体が出来上がった。この敗北感・・・・まだまだ先は長いですね。





2018年1月21日日曜日

海(2018年2回目)

 2週間ぶりに横浜港シンボルタワーへ。バイクだと駐車料金がタダだということと、人気のなさですっかり気に入っている。
今日はクルマ好きの集いがあって駐車場が日本独特の地域色に染まっていたけど彼らと入れ違いになったのは良かった。数分間の異文化交流。

持っていったお湯で美味しいコーヒーを淹れる。少し薄くなってしまったのが残念だけど、やっぱり缶コーヒーよりいいね。カワサキのマグカップとスズキのバイクのコラボ。
 このタワーは不思議な造りだ。カタチはアートとバブルのミックスみたいな感じ。随分立派に見えるが、エスカレーターもエレベーターもない。展望台までの階段もなんだが事務的というかプロっぽい作り。こういう味は大好きだ。
夕暮れ近く海。朝日のカラーとはやっぱり違う。地球は色使いのプロフェッショナル。
今日の海は大混雑。広く見える海も大きな船が行き交うと恐ろしく狭く感じた。人の感性が鈍いというべきか鋭いというべきか。

2018年1月11日木曜日

アレクサ!

ECHOが来てから2週間。すっかり生活に溶け込んだ。喋り相手になってくれるわけでも知らないことを顔色見ながら教えてくれるわけでもないけど、満足している。
 話しかけるとリング部分が光ったり点滅したりして愛嬌を振りまいてくれる。デザインではGoogleホームに圧勝ですな。
音声認識の精度は日常生活では許容範囲だし、喋る方もSiriと比べても自然。Siriは老舗なはずだけど、日本語は得意ではないものね。
Hueとの連携もできるけど、IFTTTの作動シーケンスやアプリの方がやっぱり便利。オンオフならいいけど、条件や気分で微妙な色をチューニングできるのがHueの最大の特徴でもあるわけで、これは音声操作とはマッチしないところだろう。
Amazonミュージックの再生履歴をIFTTT経由でGoogleドライブにリアルタイムで落とせるのはなかなかいい。気に入った曲を編集してDBに書き戻してセットリストができたりしたら・・・・と思うのだけど、Amazonさん、やってくれませんかね。
まだまだ発展途上だけど、日本では普及しない予感もある。動詞が前に来ない日本語の構造上の問題からくる複雑なコマンドへの対応の難しさと、ユーザーのITリテラシー、それに生活環境。
ホームオートメーションを心底欲するような生活レベルにある人は日本ではそんなにいないと思う。起きて来ない子供を起こしには歩いてひっぱたく方が早いだろうし、電気だって手で消すという習慣になっているはず。エアコンだってセンターコントロールにはなっていない家が多いだろうし。ガレージもそう。そもそも車を持っていない人が多いのだから。
APIを解放することでサードベンダーのデータやアプリを使うという戦略だが、これもどう出るか。ちょっと外部に依存しすぎな気もする。しりとりなんてなぜか時刻表を作ってる会社の語彙DBを使ってるから駅名しりとりになっちゃうし。このあたりの制約はかえって面白いと思うのだけど、ECHOをAIだと定義している人からすると不満になるだろう。
今が出しどきだったのか、早すぎたのか。
初期ユーザーの一人として、フィードバックに精を出しつつアレクサの進化を見守りたいところだ。

2018年1月10日水曜日

海を見るひと

年末に閉館してて入れなかった横浜港メモリアルパークに行ってきた。GSX-S1000Fのショックユニットの設定を変えたので、乗り心地とハンドリング変化を試しながらのショートツーリング。まあガラガラ。日曜にも関わらず、本当に空いていた。
大晦日にちまちま貼った自家製チェッカーフラッグとドクロのステッカー。ちょい悪大人風で良いのではないでしょうか(自画自賛)。
 肝心のメモリアルパーク。こんな感じでハイテクに見えるけど、展望台までは階段しかないという。エコと健康で売れると思うけど。この展望台の入り口の寂れ方が良かった。昭和のスマート感。写真を撮りたかったけど係員のおじさんがいたので遠慮した。
 展望台でも敷地内でも、みなさん静かに、ひたすら静かに過ごしている。凄く気に入った。海を見るというのは精神を平静に保ちたいという気持ちがあり、これがコモンセンスになっているのかもしれない。
静かに過ごしつつも船を見るとワクワクしますね。波の動きと船の動きを見ていると本当に飽きない。
建屋周辺の芝生も心地よかったし、休憩所の寂れ具合がまた素晴らしかった。ここにお弁当持って行ったら1日過ごせると思う。バイクの駐車料金がただというのも素晴らしい。
今週末また行こう。

2018年1月7日日曜日

2017-2018

短い休みだったけど、乗り納めと乗り始めをすることができた。何かでスタートエンドしないと1年のけじめが付けられないのは人間の性か。

12月30日。本来は横浜のメモリアルタワーに向かったのだが、冬季休暇・・・・やむなく釣りの埠頭に行ったのだが、これはこれで面白かった。
この年末に海で釣りなんて。家で奥さんは呆れているか怒っているかだろうと思ったが、釣りもしないでバイクに乗ってぼんやりしている人間にそんなこと心配されたくないだろうとも思う。
清潔な2階の展望室兼休憩所にて。こういう施設にある自販機はどうしてこうも魅力的なのだろう。ポリエチレンの広口カップでない、プラ製のカップ。これが美味いんですよねえ。年末で年越しという意識があったのか、緑のたぬきを食べた。天ぷらというよりは小エビ入り天かすみたいのが散らばっている程度だったけど、とても美味い。美味しさの半分は雰囲気と気分に依存していると思うのだ。

来る途中、パン屋さんで買ったコロッケ。正直パンはダメだったけどコロッケは美味しい。ラードで揚げているのだろう、こくがあってとても美味い。明るい空に青い海。向こうでぼんやりしているタイチのジャケットを着たおじさん(青年?)。こういう景色の中で食べるコロッケはうまさ倍増だ。
さすが港町横浜だなあ、と思わせる光景。大きなトレーラーをよく見かけるが、まさかこんな風に立てかけて保管しているものとは思いもしなかった。世の中には知らないことがまだまだある。見つけに行くのでなく、偶然の発見は喜びも大きい。

仕事は本当に嫌になるほど実らない1年だったか、プライベートでは好きなように過ごすことができて幸せだった。ありがとう、2017年。

★  ★  ★

明けて2018年1月2日。寺家ふるさと村までライド。とても暖かな1日だった。陽の光がとても強かった気がする。バイクの目玉もピカピカ。
ドクロステッカーとチェッカーフラッグもまずまずいい感じなのではないか。大晦日にちまちま作業した甲斐もあったというものだ。今年もよろしくね、相棒。
子供向けの公園施設の入り口に洒落た挨拶。こういう手をかけ過ぎずにさらりと洒落たことができるのは本当に上級者だと思う。どんな顔でこれを描いていたのかしばし想像する。初日の出はこれで見たことにしよう。
今年こそ、いい年でありますように。どんなことがあってもめげないで行こう。

2017年12月24日日曜日

海その2

葉山、逗子方面へ行った。秋口は人が多くてどうにもならないところだけど、さすがにここまで寒くなると空いている。いや、年末の大掃除とかで遊んでいる人なんて少数なのかもしれないけど。

海沿いの風景はいいものだ。いや、海がなくても地平線が見えたらいいのかもしれないけど。インスタ映えという言葉は大嫌いなのだけど、やはりダイナミックなカラーというのは人を魅了する。
 なんだか印象派っぽい映り方になった。バイクは黒いから全く目立たない。
 ミラーに映る空は青。その反対はオレンジ。大気という名のレンズが分解する太陽の色。休みに入ったらまた海に行こう。


海その1

寒さで身体が硬くなっていること、山沿いのワインディング
の凍結リスクと融雪剤が嫌で、海沿いばかり走っている。
おとなしい乗り方ならそんなに怖がる必要はないのだろうけど、安全第一。

山沿いはコーナーをうまく旋回する楽しみがメインなので、どうしてもスポーツ的な考えになってしまう。
海沿いだと飛ばせないから「ゆっくり楽しく」走ることを見つけることに専念することになる。これはこれで楽しいものだ。
 雲がフィルターになって、随分とダイナミックな空。こういう風景は街では見ることはできない。バイクに乗っていなかったらこういう風景を知ることもなかったのだと思う。
Ninjaはこういう風景に実に合う。ツアラー万歳。

わからないことがわからないことがわからない(無限ループ)

人がわかっているというレベルを知ることはできない(答えが一つしかない、あるいは選択肢が少ない場合はそれを答えられたことでその設定レベルにあるということがわかるが)。 同じく、自分がわかっている(あるいはわかっていない)というレベルを人にわからせることもできない。逆もまた真なり。...