人がわかっているというレベルを知ることはできない(答えが一つしかない、あるいは選択肢が少ない場合はそれを答えられたことでその設定レベルにあるということがわかるが)。
同じく、自分がわかっている(あるいはわかっていない)というレベルを人にわからせることもできない。逆もまた真なり。Vise Versa.
互いにわからないことが自然、ということを是認してしまうと、コミュニケーションのレベルによっては会話やビジネスが成り立たないことになる。その意味では会話や仕事のクオリティを定量化できることで可視化するのは大いに正しい。少なくともそれが社会のクオリティの底上げにはなる。デタラメよりはよほどマシだろう。
では、その会話や仕事が目の前にはない、あるいは構造が複雑で可視化が困難だったら・・・それはその品質を定量化(計量化)できるのだろうか?
答えは実は簡単(そうに見える)。ある母集団の中で最もその会話の対象や仕事について知見がある人がその成果の品質を決めればいいのだ。
では、知見があるというのは誰が判断するのか?神か?その人に知見があると判断できるのは2パターンしかない。
一つは本当に神のような存在の人がある人について、「まあ知見あるよね」と判断できるケース。
もう一つは、神以外の人が「自分よりは知っている(かつ、自分もその道ではそこそこイケてるはず)」と認証してしまうケース。
前者は「その道のプロ」がコミュニティを形成しているような場合はまず間違いないだろう。問題は後者だ。「勘違い野郎」が跋扈する原因にしかならないだろう。
今の世の中、後者のケースがとても多くありませんか?
世の中にないものを生み出そうとしたり、アイデアを伝達することは「わからないことがわからないことがわからない」そのもの。だから「有識者」とか「専門家」という代表概念を据えて「わからないことがわからないことをわからない自分・世間」を納得させているのだろう。こういうケースでは自分を信じて押し切るしかない。「わからないことがわからない人は斬りすてよ」というのが処世術なんでしょうね。
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