2018年5月16日水曜日

いつもオクトパスアーミーだった

1987年4月の2週目だっだと記憶しているが、クラス全員参加のコンパがあった。大学はクラス単位での授業は語学と体育だけであり、クラスという単位があまり意識されないということは入学後初めて知った。
クラスの担任は飄々とした方で、アカデミーというよりは社会での実践を重んじるタイプだった。コンパも、「クラスで動くことはどんどんなくなるから、今のうちにしか取れないコミュニケーションを取っておいたほうがいいよ」という非常に端的なアドバイスからなるものだった。

コンパは渋谷のセンター街の中にある小洒落たイタリアンのお店でやったと記憶している。お店に行くのが遅かったせいで、窓際のハイカウウンターのような席でとても座りにくかったこともよく覚えている。
お酒が体質に合わないこと、カラオケも嫌い、そもそもあまりきゃあきゃあ騒ぐのが好きでもないので、お開きになると同時にお店を出た。
高校時代は新宿や原宿ばかり行っていたし、浪人時代は買い物自体あまりしなかったので、渋谷の店から湧き出してくるようなファッションの情報量に目を見張った。当時はフラッシュダンスやトップガンといった、今でもよく話題になる映画がヒットしていて、これらの登場人物の服や靴、それにバイクが注目の的だった。リーボック、MA-1、NInja・・・これらは今は商品を表す言葉にすぎないけど、当時はライフスタイルとかカルチャーを表す記号だったのだ。これら記号がどの店からも溢れて、センター街を覆い尽くしていた。

センター街を渋谷駅に向けてゆっくりと歩いていると、軒下までTシャツや小物を溢れんばかりに出している店があった。高い天井からはMA-1やらロンTがたくさんぶら下がっていて、倉庫のような雰囲気。現在の所ジョージ氏のご自宅のような雰囲気とでも言えばいいだろうか。服、靴、雑貨が溢れんばかりなのだが、そのテイストに一貫性があるところが妙に心地よかった。これが大学時代4年を通じて毎週のように通うことになるオクトパスアーミーとの出会いだった。
ド派手なプリントものや、グリーンベレーのようなタコのキャラクターもの。これがなんとも格好良くて、ひとめで気に入った。中でも、派手なタコのワッペンが前後について茶色のメタリックっぽいMA-1がとても気に入った。お値段は確か32800円だったか、39800円だったかだと思う。大学入学したてでアルバイトもまだやっていない19才にはなかなかのインパクト。店員さんに聞いてみると1サイズで数着しか作っていないから、38サイズ、40サイズは店頭に出ている限りとのこと。うーん・・・・

翌日、なけなしのお金を握りしめて渋谷に直行した。お店のオープンは確か10時30分だったと思う。開店と同時に購入。お店の方は私を覚えていてくださったが、少なからず驚いた顔をしていたことも覚えている。顎周りに薄くヒゲを生やした、いかにもアパレルの方という方で、多分当時25才くらいだったのではなかろうか。今はどうしているだろう。
お店の派手さに似合わぬ地味な茶色い手提げ袋に入れてもらい、そのまま帰宅した。遊ばずに帰るなんて、よほど嬉しかったのだと思う。

これがきっかけとなって、主にアウターはオクトパスアーミーで買うようになった。前のエントリーでショップのwebから拝借した写真のTシャツはおそらく20年以上ぶりに復活させたオリジナルキャラ、ケンケン。これは私が通い始めた頃はなくて、多分1988年頃から使ったキャラクターなのではないだろうか。
オクトパスアーミーで気に入ったのは独自キャラやお店の派手さだけではない。品質がとても良かったのだ。メイドインUSAかジャパンのものが大半で、当時そろそろチャイナが出始め、TAIWAN多数派といった、当時のお値打ちカジュアル群の中では異彩を放っていた。
どこに行くのもオクトパスアーミーだった。学校、バイト、ドライブ、ツーリング。学校では階段教室で背中を見ればどこに私がいるかがすぐわかる、と言われたことがある。良い目印になっていたのだろう。「背中にタコ背負った人」と言われていると同級生の女の子にも言われたことがあるので、よほどのインパクトだったのだと思う。良くも悪くも。

今はこれだけ入れ込んでいるブランドやショップはない。大人になって社会とのお付き合いが半分を占めるになったこともあるのだろうけど、お店に行かなくては!という強迫観念すら感じさせてくれるような好きな店がないのだ。「オクトーアスアーミー シブヤで会いたい」という映画が1990年に公開されたが、このタイトルをつけた監督もおそらくは当時のオクトパスアーミーにインパクトを与えられ、そして愛していたのだと思う。
自分が好きなものがある生活というのはとても幸せだったと思うのだ。

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