2018年6月20日水曜日

わからないことだらけ(その1)

「おめでとう」の真意というか、その意義が昔からわからない。どこかでおめでとう、という言葉や文字を見るたびになんだか不安というか、気持ち悪さを感じてきた。
この気持ち悪さをちゃんと整理したいので、考えて見る。

まず、おめでとうとセットになっている(らしい)言葉を羅列してみる。

誕生日/合格/昇進/卒業/退院/結婚/出産/優勝/入選 

これくらいか?そもそもこれくらいしか浮かんでこないということが「おめでとう」を考察するに足りない人間であることの証左のようにも思えてくるが。

これら言葉の現象とかプロセスを考察してみる。
<本人の自由意志が介在しているもの>
合格/昇進/結婚/出産/優勝/入選
あとは自動的というか。制度やフローに従っているだけだから、おめでとうの対象にはならないのではないか。卒業なんて大多数の人が自動的にするものだから、おめでたくもなんともないだろう。お金でものを買ってお釣りをもらう人を見て「おめでとう」というのと同じくらい意味がないのではないか。

自由意志に従ってさらに「能力」が必要なものは何か。
<本人の能力がその成否の説明変数であるもの>
合格/優勝
これら以外は他人や制度の穴、それにその組織の価値観が左右するから、本当におめでたいと言えるかはとても怪しい。よく解釈して「ラッキーだったね」止まりだろう。

つまり、定性/定量的な基準がハッキリとしていて、しかもこれが本人の能力や努力に完全依存する場合には「おめでとう」の対象となるという結論になる。合格も優勝もおめでとうに相応しい現象(結果)だ。あ、合格はその人のポテンシャルに見合わない場合もあるから、これは例外になるか。言葉は悪いが、「滑り止め校に合格おめでとう」は文脈として変だ。

5分間考察でスッキリした。気持ち悪いとずっと感じていたのは、こういうロジックを無しで「おめでとう」が乱発されていることに私の無意識が反応していたからだろう。
私自身は50年の人生の中でおめでとうと言われたことは一度もない。これは優勝という経験をしたことがないし、資格や学校の合格についてはおめでとうと言えるだけのポテンシャル判定をできる人が代々木ゼミナールしか存在しなかったからであり、法人である代ゼミは私に物理的に声をかけることができなかったからだ。
同様に私は誰かに「おめでとう」と言ったことが一度もない。周りに優勝や合格するという経験をしたことのある人が一人もいないからだ。
とてもロジカルな「おめでとう無縁人生」を送っているということになる。

ここまで整理したら「おめでとう」がより気持ち悪く思えてきた。結婚おめでとうというのはランチにカレーを注文した人に向かって「オーダーおめでとう」というのと同じくらい妙な行為のはずだ。卒業おめでとうに至っては、トイレの個室から聞こえてくる流す音に向かって「脱糞おめでとう」というのと同じくらい珍奇なことなのではないか。
本当に世の中は謎に満ちている。


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